1995年 劇場用映画 『ファザーファッカー』



プロデューサー:菊地美世志/沢田康彦

菊地美世志は後に『ファザーファッカー』の監督要請をすることになる荒戸源次郎の事務所で『外科室』のプロデューサーをした後に退社しフリーになっていた。
沢田康彦はマガジンハウスの社員として編集者をしながら、『あひるの歌が聞こえてくるくる』などの椎名誠映画のプロデューサーとして知られていた。


協力プロデューサー:鈴木基之/孫家邦

孫家邦は荒戸事務所で『どついたるねん』『鉄拳』『夢二』をプロデュース後退社し出版社リトルモアの経営に参加していた。
鈴木基之は後に参加することになるがホリプロの社員である。



“ど、ど、どれもピンとくるものがないんだよね”秋山は友人だった孫、菊地、沢田にそう言った。孫が言った“そんなら、自分で製作したらいいやないですか”孫は乱暴者である。菊地と沢田が同意する“そうね、それがいいんじゃないですか”菊地も沢田も無責任である。3人とも原作を読んではいたものの、いわゆるベストセラー小説の映像化権などとっくに大手の製作会社が押さえているだろうということもあり自分で映画化するつもりでは読んでいなかった。
“お、お、俺は出来ないよ、映画は製作した事ないし自分の仕事が忙しいもの”“俺だって忙しいですよ”と社員編集者の沢田は言ったが、孫と菊地はその時期そうでもないことを秋山は知っていた。
“だ、だから4人でやらない?”4人は顔を見合わせた。
取りあえず各自原作を読み直してもう一度集まることを決めて別れた。
綿密な計画を練って進めた企画でも突如つぶれてしまう事もあるのが映画製作だ。そしてこの話はまだ何一つ決まっていないし、製作資金のめどもなかった。また、原作のある企画を映像にするのは非常に難しい、多くの読者は原作を読みながら各自、独自の映像を描いているし、原作者が存命の場合は特に原作者の思い入れと映像制作者の製作意図が一致しない場合トラブルになる事もある。
そして数日後4人は再び集まった。
秋山は内田春菊からこのプロジェクトで映画化を進める場合、映像製作者の製作意図を全面的に尊重し協力してくれる約束を取ってきていた。孫は監督、スタッフの候補を絞ってきていた。菊地は原作からみた製作費の概算を出していた。そして沢田は製作費の捻出方法を考えてきていた。 孫、菊地、沢田の3人もこの原作の映画化を、面白いと思ったのだ。