1997年 PS用ゲームソフト『ユーラシアエクスプレス殺人事件』


プロダクションノート

 1997年の暮れも押し詰まった頃、フォーサムの高島さんからプレステーション用のゲームソフトを作りたいので協力してくれないかとの電話でこのプロジェクトは始まった。

 高島さんは優秀な映画の編集マンでフィルムメイカーズは映画の製作会社である。ゲームソフト製作は専門外ではないかと私が言うと、彼は実写版を企画しているとの事。当時実写版と言えば実写のスチール写真がカクカクと動くソフトしか無かったように記憶している。彼はそれを完全動画でやりたいと言う。ゲームソフトに関する知識が乏しい私でもそれがかなり大変な事だという予測はついたが、他ならぬ高島さんの申し出だったし、おもしろそうな予感に逆らえずやろうという事になった。しかし、高島さんとのミーティングを重ねるごとに私の予測を遥かに上回る大変な事だと言う事が分かってきて、しかも、それは私だけでは無く高島さんも同様だった。つまり前例がない事ばかりなのである。そしてそれはその後参加してくれたスタッフにも事あるごとに苦労を強いる事になった。

 まず、スタッフの人選が重要な鍵となった。映画だけに精通していても、ゲームだけに強くても出来そうに無い仕事である。まず映画のプロである事、そしてゲームにも興味を持ち、なにより柔軟性と好奇心のある事が大事である。

 監督には岡田周一を私が強く推した。彼とは助監督として以前仕事をしてもらった事があったのだが、高島さんの同意を得て監督として決定すると、直ぐに企画開発に加わってもらった。

 ベースになるストーリーは高島さんが企画してそれを映画の脚本家の中島さんに映画の脚本風にシナリオ化してもらった。しかしそのままではゲーム用の撮影は出来ない。なにしろ色々なパターンをシュミレイションして書き加え、時には話しを飛ばしたり戻したりと東京版電話帳ほどの厚さの脚本になっていく。

 監督の岡田がクランクインまでのスケジュールをたてて脚本チームを編成して脚本の中島との共同作業が始まる。パターンによってのストーリー展開に矛盾が無いか?台詞に矛盾がないか?ハードディスクの容量は大丈夫なのか?全てが絡み合う問題である。

 撮影は列車の中である。ロケーション撮影は不可能な事が解るとベテランの映画美術デザイナーの高橋さんに相談した。高橋さんはベテランでありながら好奇心旺盛で柔軟な人である。監督の撮影プランの要求に答えて、限られた予算の中で見事な列車のセットを作ってくれた。

 撮影の西川さんは現場プロデューサーの山仲さんの推薦で決まった。やはりベテランカメラマンだったが多くの規制のある中で柔軟な撮影をしてくれた。